設定だけなら、昼ドラだと言ってもいいと思うんだけど……
やはりノーベル文学賞は伊達じゃないということなのか。
面白く読めました。
60歳を過ぎたばかりの信吾は会社社長。最近物忘れが激しくなり、人の名前や
ネクタイの結び方を忘れたりしている。
妻の保子は元気で、しっかり者だがそれほど繊細なタイプではない。
同居の息子は同じ会社にいて、後継者としては何の心配もなさそうだが、愛人がいて、
その存在が信吾の心に重くのしかかる。
というのも、息子の修一の嫁、菊子を信吾は密かに恋しているからだ。
表面は静かだけれども危ういバランスをようやく保っている家の中に、房子という娘が出戻って来る。
房子は不美人であり、それがゆえに信吾はあまり房子を愛せずに育てた。
房子もそのことは感じており、今回出戻って来たのも麻薬中毒の夫から逃げて来たという現実の背後には
そんなところに嫁にやった父、可愛がって育てて貰えなかった恨みも多分にある。
房子が連れてきた子供は、その房子の鬱屈を凝縮したようにひねくれた子供に育っている。
状況は相当にドロドロなのにそれでも書きぶりは上品であっさりしている。
多分、話のメインの要素は「信吾の菊子に対する思慕」かとは思うが、こういう設定であれば
もっと深みにはまるところまで書きそうなところ、川端康成は浅瀬でたゆたう部分を書いている。
繊細な感情の部分。むしろこんなドロドロをこんなキレイに書いていいのかと思うくらいに。
わたしはとにかく、房子の扱いが気になった。
わが子であっても、美人不美人でそれほど愛情が変わるもん?
たしかに川端康成は耽美の人というか、美を愛する人だったと思う。
それは偏愛というべきものだったのかもしれない。
彼の作品をそう読んだことがないわたしがそういうのはお門違いも甚だしいが、
――わたしは以前に川端康成がコレクションしていた日本工芸のエキシビを見たことがあり、
小説ではなくてそのコレクションを見て、「美意識が高い人なんだろうなあ」と思っていた。
そういう人には、やはり顔の美醜というのはより重要なものなのだろうか。
どんなヘチャムクレでも、わが子は可愛いもんと違うの?それともそれは絵空事なの?
まあこれは小説ですけどね。
信吾には、妻である保子の美しい姉を若いころに恋し、その恋は淡い片恋のまま、
美しくはない保子と結婚したという経緯がある。
姉の面影を娘に期待して失望した、という部分はあると思う。
しかしそもそも姉の面影をそれほど長く引きずっているというのも、……保子も気の毒だし、
房子もかわいそうだよなあ。だが実生活上もそういう“引きずる”ということはある。
実にしばしばある。それは良くも悪くも作用し得ると思うが、
――呪いとか縛りとか、そういう方向にいきやすいようにも思う。
そういうものを積み重ねて人生がある。
だが、もっと単純に生きていられたらその方が幸せなことかもしれないなあ。
過去のない現在なんてないけれども。
修一も何だかやっていることは怪物的だし、菊子も自分一人で中絶を決めて、
登場人物のやっていることは軒並みみんな極端なのに、美しい文章で違和感なく読めてしまう。
やはり文章は魔法ですね。この世には腕のいい魔法使いとそうでない魔法使いがいる。
願わくは腕のいい魔法使いに数多く巡り合わんことを。
川端康成は中学生の頃に、子供向けの文学全集で1冊読んだきりではなかろうか。
でもあれは別に子供向けに書き直したとかじゃなく、原文そのままだったはずだよね。
「伊豆の踊子」の他に、短編が相当数入っていた気がする。
キレイな文章という意味ではわたし向きなのかもしれないが、
基本設定がちょっと不安でツブしていこうとは思えない。
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