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◆ ゴッホ展 ~空白のパリ時代を追う~

宮城県美術館で7月15日まで開催中。

……予想通り、それほどいいもんでもなかった。むしろ予想よりちょっと下。
企画としては努力が感じられるんだけどねえ。
逆に言えば、物だけでは魅力にとぼしいから、あれこれ理屈がくっつくんだよね。
でもやっぱり現物を見るんなら、枝葉の部分じゃなくて絵そのものの魅力で感動したい。

どうも目が滑りがちだった。わりと気合いは入れて行ったので、絵がほとんど何も語らなかったのは
こっち側の理由だけではないと思う。気合いと感受力が一致するかというと、実際はしないのだが。

どれを見ても、「好き」「いまいち」くらいしか出てくる言葉がなかった。
何とかそれ以外の言葉で、と言えば
「セーヌ河岸」の水面のピンクがいい。
「肉屋の眺め」は軽みがいい。ロートレックをなぜか思い出させる。オレンジ色のせいか。
「あおむけの蟹」写実的にも描けたんだねえ。
「各種トルソー」トルソーも描けたんだねえ。描いてたんだねえ。
「アニエールのレストランの外観」「ヒヤシンスの球根」「アサツキの鉢植え」はかわいい。
……しかしどの感想もふと浮かんでふと消えゆくウタカタのごとく、真摯に心を動かされた言葉では
ないのであった。

そういった作品群のなかで、かろうじて語っている絵は、各種自画像。

こんな小規模なエキシビに10枚程度自画像が来てるんだから、ゴッホはどれだけ自画像を描いた
画家なんだと思うよ。というより、彼の作品は――作品なんて全て自分の分身だけど――
全て自画像と言えないことはない。

いかにもゴッホというようなタッチのものも、初期のわりと普通に上手い感じのものも。
描いた時期はほぼ同時期なのに、花を描いた作品の稚拙ぶり
(と言っていいものなのかどうかは確認が持てないが)と、
自画像の饒舌ぶりの差はどうしたことかと思う。
本質的に、自分だけを見て描いた画家なんだろうな。

自画像を見ていると、“在る”という言葉が浮かんで来る。
100年を隔てて、画家はまだそこにいる。その生命力は失われてはいない。
こちらをじっと見つめる目に希求を感じる。それは自分が鏡に見るものとおそらくは同じものだろう。
無限に遠い他者への視線。

一枚でいいから力作が欲しかったな。
ポスターに使われた絵も良い絵だけれど、ゴッホらしい熱さが希薄というか。
わたしはわりとオランダ時代の絵も好きだけれど、今回来ているもののなかには、
あまり印象に残る絵はなかった。

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