全詩集というから相当な分量かと思ったら、案に相違してそこまでではなかった。
本人の詩集としては2段組で300ページくらい。
(そのあとに草稿と、本人が訳した韓国の詩人の作品が続く。全体では450ページほど)
内容も相俟って、かなり読みやすい部類。
第一詩集「対話」のぎこちなさが良かったかなあ。
その詩は一文一文の繋がりが唐突で、わたしにしてみればなんでこの連の後にこの連が続くのか、
サッパリわからないが、詩情というものがあったように思う。
その後、年を経るに従って意味がちゃんと通る詩になり、……でも意味がちゃんと通る詩を
マトモに書かれると、詩というよりもエッセイを読んでいる感覚になり、
詩として書かれた意味は、などと考えてしまうから。
詩と散文の違いは――と、たまに少し考えることがあるけれど、
何秒か考えてすぐ忘れてしまうので、結論に行き着いたことはない。
でもまあ、詩ならば、どこの一行をとっても動かないほど堅牢な構築物でありたいね。
それは理想だが。不可能なことだろうが。
堅牢とまでは言わないにしても、言葉と言葉の緊密な繋がり。
一の次に二がくるように、この言葉のあとにこの言葉を続ける必然性。
わたしがその必然性を感じるのは三好達治。
好きな詩人といえば中原中也だけれども。
茨木のり子の詩で有名なのは
「わたしが一番きれいだったとき」。
個人的に印象が深いのは「小さな娘が思ったこと」。どちらも昔に読んだもの。
今回「自分の感受性くらい」という詩のタイトル(詩集のタイトルでもある)を読んで、
想像したとおりの内容だったので、捻ればいいというものではないけれど、
タイトルからそのまんま推し量れる内容というのはどうもなあ、と思った。
この一冊中、この一行、と残るものはなかったなあ。
茨木のり子が韓国人の詩を訳したものを読むと――
(「韓国現代詩選」という1990年の翻訳)
韓国人のどの詩人の詩を見ても、あまりにも茨木のり子の詩になってしまっているような気がした。
なので、最後まで読めなかった。
12人ほどが含まれているようだが、彼らはおそらく相互に相当毛色の変わったものを
書いているであろうのに、みんな茨木のり子色に染められている。
詩の翻訳に意味があるのかというのは、わたしの長年の疑問。
今回、その弊害部分を目の当りに出来て良かった。
むしろ詩人に訳させてはいけない気がする。あまりに自分の言葉が強すぎる。
その後、後藤正治なる人が書いた、茨木のり子の評伝「清冽」も読む。
いい人が書いた、いい人の評伝で、読んでいて気持ちが良かった。清々しい。
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