フェルメールは好きな画家だが、――しかし全部が好きというわけではない。
出会いははっきり思い出せないな。
思い出せる一番確実な記憶では、ニューヨークのフリック・コレクションを何の気なしに見ていて、
目に留まったのが最初。数ある絵の中で浮き上がってくるようなほんまもん感があった。
そこで「へー、フェルメール」と見直した気がする。
ちなみにフリック・コレクション自体も、個人コレクションとしては相当感心したので、
良いものの中の高インパクト。かなりイケル。という感じ。
そこで何を見たのだったかはいまいち思い出せないが……
「女と召使」かなあ?色がとてもきれいですから。
そしてその直後、メトロポリタンに行ったらちょうどフェルメール展をやっていたんだよね。
しかしそこでは何を見たのか判然としない。東京の美術館ほどではないけど、
やっぱりフェルメールの特別展は混んでましたから。あまりちゃんと見た記憶がない。
その数年後、今度はオランダで。
その頃にはもうフェルメールが“好き”の範疇に入っていて、オランダに行ったのも
キンデルダイクの風車群、ゴッホ、レンブラントと並び、フェルメールも大きな目的の一つ。
たまたま読んだ「真珠の耳飾りの少女」という小説にもインスパイアされたかな。
デルフトの中央広場に宿をとって、確実にこの場所を歩いたであろう画家の姿を想像した。
この時にマウリッツ・ハイスの「真珠の耳飾りの少女」に惚れた。
好きな絵、と訊かれれば五指に入る――いや、三指か――いや、もしかしたら
ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」かこれかの二者択一かもしれない。
美しいですよ。この絵は本当に。
正直、少女の顔は好きなタイプではない。モデルが好きな顔かというのは
けっこう大きなファクターではないかと思うが、この絵にはそれを補って余りある――
――なんだろう?輝き?光?……いや、結局「美」としか表現できないものがある。
これを数分間、独り占め出来たのが自慢。
マウリッツ・ハイスの目玉作品といって誰からも文句は出ないと信じるが、
そもそも日本の美術館と違って、海外の美術館はそこまで混んでいないことが多い。
この作品の前にも人がいたりいなかったりで、正面から、一番好きな位置に立って
じっくりと眺めることが出来た。
幸せだった。
美の照射は心に当たる太陽の光のようだ。
ひなたぼっこをするとカラダが喜ぶように、美は心を喜ばせる。
フェルメールの次点は同美術館にある「デルフトの眺望」だろうか。
ものすごく好きかというと、そこまでではなく。好きな絵ベスト20ならば入らなさそうな気もするが。
でも1位を「真珠の首飾りの少女」とするなら、2位はバランス的にぜひこれにしておきたい。
3位は「牛乳を注ぐ女」。オランダ国立美術館。
画題的にはわたしの好かない風俗画なんだけれども……この絵にはひたすらな無心があるでしょう。
多分この女は毎日のルーティンとしていつものように牛乳を注いでいる。
無意識に行えるほど慣れきった動作。慣れきった動作がいつも美しいかは場合によるが、
この場合は生活の確かさを感じさせる。
そしてテーブルの上に置かれた光の粒粒の静物たち。白い一筋の牛乳。壁の白。
服の鮮やかなクロムイエロー(かどうかは知らない)。日々をたくましく生きる黄色。
何の寓意がなくてもそれだけでただ美しい。
そう!わたしがフェルメールの何に不満かというと、
寓意やらなんやらをてんこ盛り盛り込むところなのだ!
そんなことしなくたって。あなたは十分美しいものを描けるはずなのに。
わたしは、寓意を読み解くことは、絵の味わいや面白さには寄与するかもしれないが、
美しさには全く関係ないと思っている。
美には神性がある。それは本能的に心を喜ばせるもので、そこに能書きが入る余地はない。
太陽の光を浴びて「ああ、ビタミンDが生成されるなあ」「セロトニンの分泌が活発になるなあ」
なんて考えて気持ちよくなってないでしょう。単に気持ち良くて幸せ。
(但し紫外線アレルギーの人を除く。わたしも軽い紫外線アレルギーですが)
でもそこで寓意を盛り込んでしまうとさ。
美へ到達できない言い訳というか、代替物としての寓意の気がして。
そんなことを考える暇があるなら、もっと美の高みを目指さんかい!と思うんだよね。
わたしにとっての美のヒエラルキーは……美しい→きれい→気持ちいい→面白いという段階かね。
あまり深く考えて言ってないけど。
寓意は、面白みは増すかもしれないけど、それは頭で考えることなので、
むしろ美のためには有害……。「ここにはこういった意味がある」と解説されることで
頭で理解することになってしまう。美は目で見て心で感じるもので、むしろ頭は邪魔じゃないか?
まあ、アートに何を求めるかは人それぞれですけどね。
わたしの好みは“理想美”どまんなかなので。
ラファエロなんか好きですねー。ミケランジェロの彫刻も好き。
古代ギリシャの面々(なんだ、面々って)も好きです。広隆寺の弥勒菩薩とかも。
宗教画・宗教彫刻は心置きなく理想を追求出来るテーマだから、そういう方向になるんだと思います。
だから、――わたしはフェルメールに本気で宗教画を描いて欲しかった。
「真珠の耳飾りの少女」にあそこまで光を与えられた彼ならば、
至高のマドンナを描けたんじゃないかという気がするんだよ。
なんで風俗画。もったいない。と思っている。
まあ17世紀のオランダで本気で宗教画を描くことは相当に難しかったと思うけどね。
そもそも、多分フェルメール自身が厚い宗教心の持ち主ではない。時代と風土がそうだった。
そして絵としての需要は風俗画だった。俗っぽい――風俗画と俗っぽさは直接イコールではないが、
「取り持ち女」とか「紳士とワインを飲む女」とか……俗っぽいでしょう。
自分が見た記憶のある絵のなかで例を出せば、「手紙を書く女と召使」なんて、
服の白、光の当たり具合は本当に美しいのに……
この召使の揶揄を含んだ表情がその静寂をぶちこわす。
この表情のせいで、物語性はたしかに生まれるけれども(面白みは増すけれども)
わたしの求める理想美とは違う方向に行くんですな。残念だ。
そういう夾雑物がない絵はといえば、わたしは他に、
「天秤を持つ女」「レースを編む女」「地理学者」「天文学者」を挙げるかな。
これらの共通項は“無心”ではないかと思う。
集中したところに生まれる無心。その静寂。フェルメールは静寂を描くべき画家だったのだ。
それを皮肉や諧謔で無駄遣いしてまったくもう。
あなたは生涯かけて静寂を追求すれば良かったのに!
皮肉や諧謔は技術で描けるけど。静寂は選ばれたほんの一握りの画家にしか望めない、稀有の成果なのに。
もったいないもったいない。ああ、もったいない。
結論は“もったいないフェルメール”。
……ところで、「赤い帽子の女」はとてもフェルメールに見えないと思うんですが、
どうなんだ、専門家の意見は。
女というよりむしろ「赤い帽子怪人」という気がする。コワくないですか。
ブキミこわいピエロみたいに見える。
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