作家の永井するみ(と言っても本人の作品は読んだことがない)が、
作家の読書道で薦めていたので読んでみた。
……うーん。きれいな話であるのは間違いない。
読んでいるうちはわりと引き込まれて読み、いいところも多々あったと思う。
でも読み終わって振り返ってみると、単に願望充足小説の気味が……。
出来婚をして、近江の旧家に嫁入った主人公が、夫の浮気から離婚をし、織物作家として
一本立ちして行くのを描いた小説。
……こういうまとめ方をすると、おそろしいばかりに食指が動かないな。
読む前にこんなあらすじを知っていたら、絶対読まなかったに違いない。
道具立ては嫌いじゃない。
染色とか織物とか。主人公は(結果的には)織物作家。作品の描写が良かったと思う。
あまりじっくり読むタイプではないわたしがそれなりに想像しながら読んだんだから。
地方の旧家というのも、読む分には好物だ。
テレビ番組でも、代々続いたしきたりとか祭りとかに感動する方だし。
登場人物たちも概ねいい人たち。好きになれない登場人物ばっかりの小説よりは10倍良い。
特に義兄:玲の造型は光っていた。
だがなあ……。
あまりにも主人公に甘いですよね。
わたしも、別に嫁姑のどろどろした愛憎劇を読みたいわけじゃないのだが。
でも手に負えない人のように言われている姑があの程度なら、むしろ良く出来た姑ではないか。
舅は良き理解者で。親代わりの叔母は口では冷たいことを言うけれども常に主人公のことを
考えてくれてるし。叔母のそばには、さらに母代りになる人もいて。
大学の研究室の染色の先生も親身に主人公の面倒を見てくれ。
さらに織物の先生もあっさり主人公を受け入れてくれ。
染色の先生も都合よく近江に合宿に来て、先生の縁者にも主人公は支えてもらい。
産院の先生にも良くしてもらい。
そして男たちにはもてまくる、と。(←ちょっと誇張。3人。いや、でもプラトニックな交流も含めたら倍だな)
それは、両親を早くに失くしたこととか、旧家への嫁入りの経緯、離婚、と、
人生の試練もそれなりにあるようには書かれてるけど、その試練が試練としてさっぱり現実味がない。
旧家に出来婚で入る風当たりの強さは、あんなもんじゃないだろう。
もっといびられ倒される筈だ。それなのに、姑は口では多少言うけど、それが主人公の行動に
全く影響を与えてないじゃない。結局産院は自分で決めるし、
染色の先生の夏合宿にも参加させてもらえるんだし。
それも乳幼児がいるのにですよ。普通の家だって、同居なら難しい状況だ。
旧家の嫁としてはむしろやりたい放題と感じる。
義兄の立場の設定が不自然。
義兄は家つき娘の姑が溺愛している長男。だが長い病気で、寿命が尽きようとしている。
その義兄に主人公は気に入られる。それが理由で主人公の立場は強くなるというが――無理だなあ。
重い病気で、積極的に人に会おうとせず、遠いところへ引きこもっている義兄が、
家庭内でそれほど求心力は持てないだろう。
実際にそういう状況があったら、嫁の立場が強くなるどころか、何よりも姑の嫉妬はすさまじい筈。
しかしそれが具体的にはほとんど描かれません。甘いといいたくなる所以。
2、3歳の子供があんなに聞きわけがいいはずもないしね。
それを“この子は耐えることを知っている”なんぞといういい方で誤魔化されては納得できない。
子供のために我慢する、という状況が小説内で出て来ないのは不自然じゃありませんか?
実生活では、母は子のためにどれほど我慢を強いられることか。
何より安易なのは、織物作家としての順調すぎる成功だ!
有り得ない。
大学で染色を専攻した→大学の美術的一般教養として織物もかじってみた→
叔母が昔、民芸運動をかじっていて家に織機があった→離婚してやることもないので、織ってみた→
大学で織物の先生に世話を頼んでみた→叔母が昔染めた糸をもらい織ってみたら初作品で先生に
「面白いじゃない」と言われ、工芸展に出品してもらったら入選→
その後糸を染める材料を他の人々に分けてもらい→順調に作品を出品し入選し続ける→織物作家誕生。
……どうなんですか、この甘ったれ具合は。
もう本当に主人公を中心にして世界が回っており、「いいよね、こういう人生なら」と
皮肉を言いたくなる。
わたしは基本、辛い話や苦しい話は嫌いだ。
読んで幸せな小説を求めているので、正直、救いのない結末とか、どろどろぐちゃぐちゃの小説は
存在意義がよくわからないところもある。
だからといって、ここまで主人公に都合よく回る世界というのもなあ……。
まあ、芝木好子自身の見果てぬ夢だったのかもしれないとは思いますよ。
子供にも邪魔されず、人にも恵まれて、順調に芸術に邁進して行く人生というのは。
でも――作品でそれをやりすぎては興ざめです。
主人公への甘さという意味では、帚木蓬生とか宮尾登美子を思い出した。
あと、とても似ている――ほとんど合わせ鏡かと感じるくらいに同一性を感じるのは、高橋治だ。
高橋治も、道具立てはいいけれども、設定の俗っぽさがどうにも気になる……
芝木好子も物や風景の描写はきれいでとてもいいのになあ。
まあ、あと1冊2冊は読むかなー。少し間を開けよう。
しかしこの作品が1990年に書かれたと知って「うわあ……」と呻いた。
その倍は昔に書かれたように感じていた。
まあねえ、芝木好子さんは1914年生まれだそうですから、書き上げた時75、6歳。
これを書いた一年後くらいにはお亡くなりになっている。
個人の価値感というのは、時代の影響を全く受けないわけではないけど、
ある程度の根幹は、やはり若い頃に固まってしまうからね。
だからこそ「近頃の若い者は……」とか言いたくなるわけで。
時代感覚的には、それなりの距離を持って読んで吉。
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