このタイトルで主人公がお釈迦様以外には有り得なかろうと思ったのだが……
主人公はお釈迦様ではありません。実は、お釈迦様と同時代に生きた、
全く別人の“シッダールタ”という青年(から老年期まで)の人生。
主人公はバラモンの息子で、その後仏弟子となり、青年期の入り口までを修行に明け暮れる。
その頃、ガウタマ(いわゆるお釈迦様)の評判が高くなり、彼とその親友は
ガウタマに会いに行き、親友はガウタマに帰依し、主人公は袂を分かつ。
その後、主人公は高級遊女と運命的な出会いをし、商人としても成功し世俗の人生を謳歌する。
が、何年もののち、その生活に倦み疲れた彼は、以前出会った河の渡し守の元へ身を寄せ、
一緒に渡し守をしながら河の流れに耳を澄ます生活を始める。
その暮らしにも慣れた頃、昔愛人だった高級遊女がその息子――シッダールタの息子でもある――
を連れて通りかかり、そこで息絶える。息子とともに暮らし始めた彼は、
その愛を得られないことに苦しむ。だが最終的にはその愛着を断ち切る。
お互い老人として再会した親友とのやりとりをもって話は終わる。
――というあらすじを読むための小説ではありませんな。
これはそこで語られる思想と、美しい文章を読むための小説。
ヘッセはドイツ人で、つまり西洋人が東洋思想について述べている。
わたしは思想部分については全く語れない。あっさり流す程度にしか読んでない。
でも多分、西洋的な、論理を積み上げる方式の思考形態とはまた違うのだろうから、
ヨーロッパ人であるヘッセがそれを咀嚼するのは難しいのであろうなあ。
難しいことを試みている。
わたしは好きだね、この作品。美しい小説として。
ヘッセの話は美しい。……っていっても、高校生の頃はちょっとまとめて読んだが、
すでにすっかり忘れている。数年前に「ガラス玉演戯」は読んだ。あれも美しい話だった。
本作には「ガラス玉演戯」と違って、ドイツ的物堅さは感じなかった。
「クヌルプ」の軽やかさはないけれど、河の流れるように。しなやかな、しみじみとした作品。
いや、でも初めに戻るが、どうしてこれで主人公に“シッダールタ”という名前をつける……。
何もわざわざ選んでそうしなくてもヨイのではないか。
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