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◇ 遠藤周作「イエスの生涯」

わたしの想像、より正確にはわたしの投影だが……

絶対の信仰を持てないキリスト者。……それは哀れな存在だ。
どうなんだ、遠藤周作。そこまでしがみついていなければならなかったのか?

出会わなければ良かった、と思ったこともあっただろうな。
枷、という言い方をしてしまうとマイナス面が出過ぎるが……
でもやはり枷ではあったと思う。逃れられない、そして逃れたくない枷。

辛かろう、とわたしは想像する。
遠藤周作は、最も簡単な言葉で言えば合理主義者だったと思うんだよ。多分ね。
いや、よく考えてみればわたしは彼を「深い河」と、二、三のユーモアエッセイでしか知らないが。

合理主義者は信仰には生きられなかろう……
信仰はある部分で思考停止を要求する。むしろ、その思考停止の平和が欲しいからこそ
信仰というものが生まれたのではないかとわたしは想像している。
しかし彼は作家だった。作家は考える存在。つまり思考停止をすることは作家としての
自分を無力化すること。

と言うと、数多くの信仰ある作家連を否定するようだが……
ま、考え方の基礎に論理があるかどうかというのは個人差がありますからね。
論理で考えない人間のタイプもある。ユング的類型によれば。
ただし“合理主義者の”作家が理を追えなかったら、これは辛い。
だからこの本だって、苦渋が滲んでいますよ。イエスを神と信じられない苦渋が。

遠藤周作の意識の中で、次の一文がどれほどの重みを持っていたのかわたしは知らないが、
やはりこれも苦渋から生まれたものだと思う。
ここまで言わなければ、彼は信仰の側に踏みとどまれなかったのだ。

   キリスト者になるということはこの地上で「無力であること」に自分を賭けることから
   始まるのであるということを。

普通のキリスト者作家(例えば犬養道子とか?)は神の前での無力さ、言葉を変えて言えば
「謙譲」を否定しないだろうが、遠藤周作が言う無力はそれとはだいぶ違う気がする。
非常に感覚的な言い方をさせてもらえば、手を祈りの形に組みあわせた「無力」と
手を後ろ手に縛られた「無力」。
手を便利に使うことが出来ないということは同じでも、祈れれば平安なのに、
後ろ手に縛られれば本当に「何も出来ない」――。

まあ、想像ですけどね。

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永遠の同伴者がいれば、生はいくらかは易かろう。
しかしわたしは、人間に智慧を禁ずる神は受け入れられない。

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