いやまあ、ちょっと飽きた……。
これは完全に“夢文脈”で書かれた作品。前に読んだ「わたしたちが孤児だった頃」も
だいぶ夢がかっていたけど、これは完全に夢文脈。
おかげでだいぶストレスが溜まりましたわー。何しろ予定通りいくことが何一つない話だったので。
最初から最後までその調子。そして最後に至るも、そこで何か決着がつくとか結論が出るとか
そういったことは何一つない。
夢文脈。これは短編で読むのなら、より一層光る手法だと思うのだが……。
漱石の「夢十夜」なんか、実に美しい(あるいは奇妙な)作品になっているじゃないですか。
その程度で止めて置いて欲しい気がする。これで上下巻を読むのはツライ。
とは言っても、漱石とカズオ・イシグロの夢文脈の扱い方は、だいぶ違うとは思うけどね。
言葉ではっきり言えないのだが、漱石が完全に夢を素材として扱っているのに対して、
イシグロの場合はもっと夢自体と密着しているというか……。
“夢ですよ”と説明をしない。そうあることが当たり前のように書いている。
出版年代を見て思った。
イシグロはこれを書いて、次に「わたしたちが孤児だった頃」を同じ手法でもう少し手加減して書いて、
そして別な――“ハイド手法”に移ったんだな。ある重要な設定を故意に隠しておく。
その前の作品から並べてみると、信用出来ない語り手→夢文脈→ハイド手法と来ている。
そこから浮かび出て来るのは、
フィクション空間の危うさ。
――って、それ、ヤじゃない?はるか昔に物語が語られ始めてから今まで、
物語自身が追い求めて来たのは、言葉や文字によって何もないはずのところに生み出される
存在の確かさじゃないの?
その確かさが物語を物語として成立させる唯一の道であるのにも関わらず、
イシグロがやっていることは、確かさを故意に打ち消す行為。
物語が物語にならないように語り続ける物語は、一体何という存在であるのか。
光に当たると見えなくなってしまう幽霊が、自分に懐中電灯を向けている構図が浮かんで来る。
それは、
――自己破壊衝動なのか。
――読者への挑発なのか。
――それとも物語が物語でいられなくなる、歴史的必然としての運命なのか。
幽霊の表情は、丁度光に当たって見えない。
憎んでいるのか。嗤っているのか。身も世もないほど悲しんでいるのか。
なんか非常に怖くなる。立っている地面がくずれる恐怖。
カズオ・イシグロは一体どこへ向かって……何をしてくれているのだ。
あんまりそういうおっかないことをしないで欲しいです。
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