アメリカ文学部分は、ふむふむ、さようでございますか、と
(わたしにしては)かなり素直に読んでいたのに、日本文学の段にさしかかると
「こめんどくさいんじゃい!」と言いたくなることが増えて。
そうなると、アメリカ文学部分もやっぱり同じくらいこめんどくさいこと
言ってるんだろうなあ、と思うようになる。
これ系統の日本文学を推す人たちが推すアメリカ文学は、わたし向きではなさそうだ。
前半3分の2は面白かったんだけどなあ。
……そうは言っても内容はもうオボエてないけど。だめじゃん。
「アメリカ」とは概念なんですねー。理念上の存在。実体が――今、現在はどうかわからないけど、
当時作品が書かれていた時代では、ほぼ実体がなかった。
だからこそむきになって「アメリカ」を書かねばならなかった。うむうむ、なるほど。
まあ面白いことも他にもちょこちょこあります。
「論」ではないアメリカ文学についての話をちらっと読みたい人にはお薦め。
高橋源一郎。は、読んだことがない。
食わず嫌いですけどね。わたしの嫌いな、実に頭で書いたような、実験的な話なんだろうなあと。
この本の中でも、彼のスタンスは「コードに距離を置く」立場らしい。
そのコードというのは小説作法(さくほう)上の約束事に、
おそらく社会的な道徳律も含んだものなんだろうけど、
そういう意味ではわたしはコード好きですからね。
コードというのは、俳句の五七五、短歌の三十一文字に似た縛りなんじゃないかと思う。
五七五以外の自由律俳句も存在するし、和歌の形式にも旋頭歌(五七七五七七)とかあるのだから、
それが絶対的に守られるべきものというわけではないが、
やはり遊びはルールがあってこそのものという気がする。
ルールの中で行われる様々な工夫が、遊びを高度に展開させるのではないか。
(この場合の「遊び」は相当に広い範囲でお考え下さい。)
そこで「ルールなんて別にいいじゃん?」と言われると、
……そう、別にルールなんてなくてもいいものだけど、
ルールのない遊びはのっぺらぼうになってしまいそうだ。何物でもない。
前衛を目指す(?)人たちは、その何物でもない所から何かを探そうとしているのかなあ。
彼らにとっては小説は世界の発見の対象なのか。
わたしは別に小説で何かを発見してもらわなくてもいい……。
コペルニクス的転回も特に期待しない……。
……だが、最近好きで見ているNHKの「どれみふぁワンダーランド」からの援用で、
バッハからベートヴェンに移ったのはやはり慶賀すべきことのような気がするから、
新しくなる努力(というより物事が新しくなるのは必然ですな)は否定すべきではないんだろうが。
だが新しいだけで全てがユルされるわけじゃないぞ!
ストラヴィンスキーなんて大嫌いだ!!
ま、わたしは読解力も文学的知識もないですから、本の内容をちゃんと読んだ自信はないよ。
相変わらず読み方は雑だしねー。……なんかちょっとナゲヤリだ……。
河出書房新社
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