上巻巻末の高坂正尭という人の解説によれば、
上巻はヴェネツィアの「成功の物語」、下巻は「輝かしき苦闘の物語」らしい。
たしかに下巻は上巻に比べて出来事を書く割合が減り、状況の説明が増える。
その社会の活きの良さは物事がいかに躍動するかによる。
つまり、何事も上り坂だと、黙っていても面白いエピソードには事欠かない。
そういう意味では下巻はだいぶ話が地味になりましたな。
下巻に書かれたことで感慨深かったのはクレタ島の攻防戦。
わたしはクレタ島に行ったことがある。
クレタと言えば基本はクノッソス宮殿で、当然わたしもそれを目当てに行ったのだが、
最大都市イラクリオンの港にあるヴェネツィア砦にも妙に心惹かれた。
無骨な石積みの砦、その外壁に象られた翼を持つ白い獅子。
ヴェネツィアだ。彼らの足跡がここにもある。
わたしはその時、平時の砦しか思い描けなかった。
青い海の向こうから近づいて来るヴェネツィア船は見える気がしたけれど、
目の前の海を埋めるトルコ船と、それを絶望的な思いで見つめる包囲された彼らの姿は描けなかった。
そうか、モロシーニの噴水か。その近くの大聖堂は、――そうか、だから聖マルコか。
わたしが歩いた道も、おそらくは誰かがそこで死んだ場所。
怒号や悲鳴や血や死体、そんなものがあったことなど忘れたような、今は明るい観光地でも。
カンディア攻防戦があったことを知っていればこそ見える風景がある。
今はもうないその風景を見せてくれるのは、やはりそれは魔法の力。
ノルマに追いまくられるように読む自分の読書姿勢に時々疑問も感じるけれど、
数の中には時に幸福な出会いがあり、それに出会うためならば、まあ乱読も意味があるかと
――自己正当化をしたりしてみる。
塩野さんが惚気て書くから、わたしはヴェネツィアの姿を5割増しくらい美化してるに違いない。
だが、読みながら思った。このヴェネツィアの歴史から、ほんの何%かだけでも、
現代日本に活かせるところはないものなのかと。
根本的にわたしは政治経済国際関係には全く疎いし、何の意見もない。
意見もないが、国会中継なんかを一瞬横目で見たりすると、システムが間違っているとしみじみ思う。
政党同士が足を引っ張り合い、貴重な討議の時間に程度の低い攻撃に終始しているのでは
高い給料を払って国会議員のセンセイ方を飼っている意味がないんじゃないか。
権力が目指すのはその保持。貴重な税金は彼らの身分保持のために消費されるだけなんですね。
ま、わたしの人には合わない話だ。
コウキセイジュウワガコトニアラズ。
中央公論社
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