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◇ 和田忠彦「ヴェネツィア 水の夢」

著者はイタリア文学者。訳書も多い。
イタロ・カルヴィーノの「パロマー」もこの人か。あんまり覚えてないけども。
この本は、過去関わりのあったイタリアの作家・詩人たちを中心に描いたエッセイ。

衒いを感じるが好きだ。
好きだが衒いを感じる。
――どちらなのか決めかねつつ読んでいた。
この人は詩人ではないんだろう。だが、多分専門はイタリア現代詩だろうし、
たまには詩も訳すんだろうから、全く詩心が皆無ではやっていけませんわね。

だがその詩心、時に強すぎると感じないでもない。
いや、強すぎると思おうかどうしようか迷うくらいの微妙さ。
例えていえば――上手い例えが浮かばないけれども――静謐な日本庭園に濃く漂うシャネルの5番。
その場所に置くにはわずかに主張が強い、と感じるということか。

最初は以前読んだ矢島翠に対応する男性側の一作品と感じた。つまり相当好意を持ったということ。
しかし読み進めていくうちに、レトリックが若干強いと思うようになる。
基本は交友関係を淡々と書いたエッセイだけに、もう少し文章も淡々に徹して欲しかったところだ。

でもそこがその人の個性で、良い所だとも言えるわけで……。
ほんと微妙でした。

ただはっきり「やりすぎ」だと感じる部分はあって、
それは「誰について書いているか、エッセイの最後で名を明かす」という技法。
たしかに鮮やかに決まってはいるんだけど、何度も繰り返されると飽きる。
もっとも、飽きるほど繰り返されてしまったのは、長い間に書きためたエッセイを
1冊に編むにあたってあちこちから集めて来たせいであって、
最初から1冊として書いたら、そもそもここまで多用はしなかったに違いない。

ただ、多用しないにしてもその技法に対する、エッセイ(複数)の長さは長かったかな……。
最後に種明かしをするのなら、ページ数が短いものじゃないと読む側に迷惑なのでは。
見開き2ページ。まあ長くても4ページ。
そのくらいなら「これは誰のことなのか」と思いながら読んで、最後に人名を明かされて
また読み返してもそんなに手間が感じないが、たとえば10ページの長さだと
「最初から書いとけ!」とも言いたくなるわけで。

パーティ会場でふとそばを通り過ぎて行った“小柄な老人”が須賀敦子のことだとわかるのは、
中盤でようやく、その人の作品名として「ヴェネツィアの宿」「トリエステの坂道」が
挙がるから。そこで慌てて冒頭に戻って読み返す。
まだ須賀敦子だから作品名でもわかるが、現代イタリア作家について書いたエッセイも多いので、
ほとんどは、ほんとに最後の最後まで誰のことを書いているかわからない。
全然知らない人なら最初に戻る必要もないけれども、ちらっと読んだことがあるような名前だと、
やはり改めて読み返さないといけない気になる。
これがわずらわしかった。

途中のヒントでわからないような奴を相手にしていないと言われたらそれまでだが――
でもたとえば、カルヴィーノ、ウンベルト・エーコ、タブッキあたりの有名どころだって、
その言動を知っている層は非常に限られると思いますよ。
ま、万人向けに書いた本が面白くなることは非常に稀れなんだから、
これはこれで良し、なんだろうけどね。

エッセイというのが思索の糸を紡いでいくものとするなら、
この人が紡ぐ糸自体には寄り添える気がする。風に流される銀の糸。

――衒いを感じるが好きだ。
――好きだが衒いを感じる。

やはり、決めかねる。

ヴェネツィア水の夢
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おっと。ヨシフ・ブロツキーに「ヴェネツィア 水の迷宮の夢」という本がありますな。
因んだか?たしかにブロツキーの名前もちらほら出て来た気がするけど。
しかしおそらく著者との直接の交友関係はなさそうな気がしたので、
あまり因む意味も感じませんな。

実はタイトルの「ヴェネツィア 水の夢」は少し疑問なところ。
あちこちから集めたエッセイ集なだけに、ヴェネツィアについて書いてあるのは、
たしか一編だけだった気がする。

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