えーと。
これは、宇月原晴明「安徳天皇漂海記」の元ネタですか?
マルコ・ポーロはヴェネツィアの商人で、元に仕えて十数年、
帰国後自分の体験談を口述し、それが「東方見聞録」と呼ばれる書物として残った。
一般的理解としてはこんなもんでいいと思うのだが、
マルコがフビライの側近だったって事実はないよね?
本を読んでいると、時々一般的理解がどこなのかわからなくなってしまうことがある。
特に伝奇系は罪作りだよなー。「トンデモだトンデモだトンデモだ」と呪文を
唱えながら読んでも、細部でついうっかりと取り違えをしてしまったりする。
マルコ・ポーロがフビライによって派遣された巡遣使だったってのは、
「安徳天皇漂海記」の設定だと思っていた。そこにこの「見えない都市」。
2作品が同じ設定を採用しているとなると、あれっ?と一瞬立ち止まってしまうわけで。
フビライとマルコの関係性が両作品は似すぎている。
多分宇月原がオマージュを書いたってことなんだろう。年代的にそれしかあり得ないし。
宇月原がカルヴィーノ作品を全く知らないってことはあるかな?
本作は、マルコが様々な都市の姿をフビライに物語るという、……うーん、なんというか
散文詩に近い書き方。都市の姿と言ってもそれは現実の都市ではなく、幻想の都市だから。
幻想部分は十分に美しく、わたしは楽しく読んだ。少し山尾悠子を思いだしていた。
が、後半になるに従ってメタフィクション的になるというか、ロサンジェルス、空港、
アンテナなんて単語が出てくるようになり、マルコ・ポーロの語りではなくなってしまう。
こうなると苦手でなあ。幻想なら幻想に徹して欲しいよ。せっかくきれいなのに。
が、きれいな幻想を読んでいると、目は文字を辿っているのに内容は全く頭に残らない、
というのも事実なのであった……。これは山尾悠子もそうだった。
例えば肖像画なら、少なくとも何を書いてあるのかしっかりと意識しながら見られるが、
目も綾な織物に対して、全体像の印象はあるけれども細部のデザインなどは覚えていられない
という状況に似ているかもしれない。
文字を辿って、目を通っていく文章の美しさを楽しむという方法もあってもいいかと思う。
基本、文字は意味を伝達するためのツールではあるけれど、意味を意識させずに
ダイレクトに美を感じ取るということがあってもいいかと。
だが、それは読み手の怠慢なのだろうか。
河出書房新社
売り上げランキング: 775080
コメント