これはミシェル・ド・モンテーニュについての本。
全3巻で順番は「争乱の人」「自然 理性 運命」「精神の祝祭」。
これ、図書分類記号が913.6になってるけど間違ってないのか?
これは……伝記とも言い難いが、真小説(?)では全然ないと思うのだが。
せめて914だろう。913.6に分類するには、かなり深読みした上じゃないと……
いや、しかしこの人は……ほんとに文章がめちゃくちゃだなあ。
読んでいてほとほと呆れる。他も若干ヒドイが、この本は本当にヒドイ。
これが文筆家の文章かと思うほど。
それにも関わらずわたしがこの人を好んでいるのは、一体どうしてなのだろうか。
自分でも実に不思議だ。別にそんなにスバラシイことを書いているわけでもないのに。
この文章でさえ、もしかしてこれは破調の美というものであろうか、などと考えてしまうのだから
贔屓の引き倒しというか……
適当さ加減に惹かれているのかなあ。文章への飄然たる態度というか。
「たかが書きものじゃねえか」とうそぶきながら書いている気がする。
しかしその根本には、自分と真摯に向き合う、向き合ってしまう書き手の誠実さがあって。
……夢を見過ぎだろうか。
モンテーニュっていって、ああ、あれね、と危うく頷きそうになるんだけど、
実は全く知らない人なのであった。「随想録」を書いて有名らしい。
生存年代ももっと後のイメージがあったなあ。18世紀頃とか。実際は16世紀後半の人です。
この本では、歴史方面から見ていることもあり、モンテーニュを当時の政治状況と
かなり関連させているんだけど(実際、政治中枢のそこそこ近辺にいた人のようです)
カトリーヌ・ド・メディシスと同時代だとは思わなかった。だって彼女と同時代ってことは、
ノストラダムスと同時代ってことですよ。一応生年は30年くらい違うようだが。
ノストラダムスは古っ!って感じがするのに、モンテーニュは明るく開明的なイメージ。
この違いはどこから来るんだろう。
という疑問には、この本の内容が答えてくれる。
この人はまさにルネサンス期の人で、しかしその思想の清新さからルネサンスどころか
ずっとのちのフランス革命に直接繋がるような存在。だと堀田善衛は言っている。
人間を中心に据えて語った人だと。
「随想録」――このタイトルの訳について堀田善衛は不満で「エセー」という訳を推奨している。
現代の大勢もその方向のようだ。でも題名としてはあまりにも無特徴で困るよね――は
カトリックとプロテスタントの間の宗教戦争があんなに激しかった時代に書かれたにも関わらず、
聖書からの引用、出典がほとんど見当たらない珍しい著作であるらしい。
例によって堀田善衛はミシェルの隣で「こいつってこういう奴だからさー」と
勝手なお喋りを吹いているので、多分本人が聞いていたら苦笑はするだろう。
彼はミシェルにあまりに親近感を持ちすぎて、それこそ贔屓の引き倒しをしてるかな?
この本に書かれているほど、公正でグローバルな視野を持った人だったかは――どうだろう。
ほんとかなという気はする。
だが、わたしはこの本に書いてあった、ミシェルがスペインの南米侵略を本気で怒った
数少ない同時代人の一人だったことを読んで嬉しかった。
いたんだ。その時その場所にもそういう人が。
流れに流されれば見えなくなる。自分に損がなければ、むしろ自分にわずかでも得に
なるかもしれないことなら、他人の痛みになど気付かぬふりでいられる。
人間とはそういうものなのに、それでもちゃんと理性の天秤が傾かずにいられる人もいたんだ。
――もちろん、当時のミシェルの立場なら「言ってみただけ」というレベルもあり得るけど。
ミシェル・ド・モンテーニュという人物に血を通わせる著作。
やはり堀田善衛は面白いと感じざるを得ない。←なぜこんな渋々。
ちなみにこの本は、「エセー」その他からの大量の引用で成り立っている。
通常であればわたしは「原稿料のただ取りだ!」と責めるのであるが、
堀田善衛にはアマイ。まあ、ええよ。という感じになってしまう。
文章の雰囲気からして、けっこうな部分を自分で訳したようだしさ。
残念ながら、「エセー」を読んでみようとは、あと一歩のところで思えなかった。
この本で読んでいる分には読みやすそうなんだけどね。
書いているのは人間について、サンプルを自分にとった人間についてで、特に哲学用語が
ずらずらと小難しく並ぶというわけでもなさそう。
でもまあ、他にも読む予定の本はいっぱいあるし……
しかし普通はタイトルに「モンテーニュ」と入れるんじゃないかね?
ミシェルだけではどこの誰やら……。わざとやってるなら相当にへそ曲がりですよ、堀田善衛。
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