文学全集の編纂。なんていうものは、それが出来る知識がある人にとっては楽しい仕事であろう。
選ぶのはもちろん難しいだろうけど、「個人編集なんだ!」と開き直って、
後はこころゆくまで自分のシュミに従う。
こりゃ楽しいさー。まあ、それほど簡単に開き直れるかどうかはわからんが。
カップリングを考えるのも楽しかったろうな。
今回のヴァージニア・ウルフ「灯台へ」、ジーン・リース「サルガッソーの広い海」は、
何となく、なるほど、と思うようなカップリング。
その反面、傾向がちょっと近すぎてその気がなくとも比較してしまう。
これは作品にとって幸なのか、不幸なのか……
わたしは「灯台へ」の方が面白かった。訳が良かったのではないですか。
読み始めて、ああ、これは……“意識の流れ”かと頷く。
読んだことのある文学作品なんてたかが知れている量だから、自分の引き出しは実にコンパクト。
そのコンパクトな引き出しの中では、“意識の流れ”は
ジェイムズ・ジョイスと結びつく。というよりジョイスとしか結びつかない。
ウルフはジョイス・チルドレンだったのかな。
そんなことを(内心少々得意に)思いながら読み進む。
でも後で見たら彼らは同年齢だから、ウルフががっつり影響を受けるまでではなさそうだし、
“意識の流れ”手法は、別にジョイスの専売特許というわけでもないということを知る。
やはり小知識しかないと間違った思い込みに走りますな。
ジョイスは「ユリシーズ」のたしか最終章でこの手法を使っているが、
彼は、句読点無しというさらに実験的な書き方を組み合わせているので、
いかにもモダニズム文学!というとんがった章になっている。
(「ユリシーズ」は全体的にとんがってますが。)
それでもわたしが読んだ訳だと、訳者のテガラでそんなに読みにくくもないんだけどね。
「灯台へ」の方はもっと穏やかな適用のされ方。
女性が書いたものだということもあるのか、すらすらと読みやすい。
ま、これも好みで「何ぐだぐだ書いてんねん!」と言いたくなる人は絶対いる。
話としては、実にどーってことないストーリーなので、わたしのようなエンタメ系は、
もっとメリハリのきいた「はっきりした物事を書いてある」小説の方がアリガタイはアリガタイ。
しかしこういうのは「川の流れの小説」だからね。
川の流れに足を浸して、その流れを楽しむという姿勢が吉。
この文章に身を浸す。分析しない。捕まえない。明確な形を決めつけない。
ただ読んでいる間、緩やかな流れを感じていられれば。
前半が「灯台へ」、後半が「サルガッソーの広い海」。
池澤が「サルガッソーの広い海」を贔屓なのは、彼が書評本で薦めていたので知っているが、
(だからこそわたしも今回、「サルガッソーの広い海」を目当てに読んでみたのだが)
……うーん、そこまでの小説かな?
世界文学全集に入れるほどかなー。
やっぱり、これは「バーサ」の話として読むのが正しいんだと思う。
「ジェイン・エア」を読んでなくてもこの話は読めるが、
作品の土台としてそれがある以上、基礎としてそれは押さえておくべきなんだろう。
……しかしどうも「元作品に話の奥行を広げてもらっている」と感じてしまうことは否めない。
この作品では、わたしは後半の、登場人物たちの息詰まるような追い詰め具合がなかなか。と思った。
とはいえ「ぼく」は、ロチェスター氏の若かりし頃だと思って読まなければ、
結局自分勝手なヘナチョコ男で、あまり魅力あるキャラクターとは思えない。
もう少し人間的な深みがあってもいい気がするのだが……
ポストコロニアル文学という言葉があるそうだが。
(……なぜコロニアル文学という言葉がない?)
この作品はやはりそういう観点から見るべきものなのだろうか。
だが、真骨頂がそこだとするなら、……「ジェイン・エア」から派生した作品だということは、
少々マイナスに働いてしまうのではないかな。
一番書きたかったのが植民地のことだとしたら、ジーン・リースの経歴ならば、
もっとがっぷり四つに取り組める筋立てがあった気がする。
もっとも、書き手が強烈にインスパイアされなければ作品は生まれ得ないんだし、
その本体をなかったことにして別な話を書いても、ある意味で本人はそれを不誠実と
感じるかもしれないんだけど。「ジェイン・エア」を読んだからこそ生まれた作品。
なんでしょうからね。
池澤は、この作品のどこに反応したのか。
解説を読む限りは、やっぱり植民地という部分だろうと思うが、
うーん、ちょっと。わからないなあ。
つまらなくはないが、世界文学全集として残って行く厚みは感じなかった。
「灯台へ」が厚みを感じるかというと、そうともいえないんだけどね。
ま、そこが個人編集の醍醐味。これがエライ人が集まって決めた全集なら、
おそらくきっと入ってはいませんよ。
河出書房新社
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