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◇ 西村公朝「よくわかる仏像の見方 大和路の仏たち」(アートセレクション)その2。

よくわかる仏像の見方―大和路の仏たち (アートセレクション)
西村 公朝
小学館
売り上げランキング: 300024

この本で出会ったブツで気になるのは以下のもの。

伝香寺 地蔵菩薩像。
裸ん坊のお地蔵様。これがとってもおすましの顔をしているから、ギャップがあって
「いいのか?おい」と言いたくなる。こう言っては語弊があるが、
ブリュッセルの小便小僧にとても近い……。
袈裟をつけた時はこの悟りすました顔が有難味を増すんだけれど。

薬師寺 聖観音像。
見た記憶がない……。とても美しい仏像だと思う。じっくり見たい。
が、顔はちょっとコワイような気がする。

浄瑠璃寺 九体阿弥陀如来像。
浄瑠璃寺には前々から行ってみたいと思っているのだが……。
庭が美しいらしいし。しかも九体阿弥陀が残っているのはかなり珍しいらしい。
でも奈良にもここ10年くらい行っていない。市内からはちょっと離れた場所らしいしなー。

この本のメインは写真だけれど、文章にも知らなかったことがちょこちょこ書かれていて、
へー、と思った。

中宮寺の伝如意輪観音が中指の先を頬にあてているのは、
「中指は印相的には釈迦如来を表わすので、すなわち釈尊の気持ちで指を頬にあてている
ということになる。さらに薬指を曲げているから、私たちの悩みを薬指で聞いている。
すなわち薬指が表わす薬師如来が、私たちの心の病を治してくれるということである。」
へー。そんな意味があったとは……。単に曲げているだけではないのか。

東大寺の不空羂索観音。わたしは広隆寺の不空羂索観音が好きなので、
名前自体には馴染みがあったが、基本的な意味は前に一回読んだ知識を忘れてしまっていた。
「『不空』とは何かというと、『空』が宇宙の空間のことであるから、宇宙の外ということになる。
『羂索』は不動明王が左手に持っている縄と同じもので、不動は片端についた分銅で
悪魔を打ち払い、片端につくった鐶で宇宙のなかの衆生を救う。ところが、宇宙の外である
不空にも亡者がいたらどうするか。この不空羂索観音は宇宙のなかにいる衆生も
宇宙の外にいる衆生も、みな救済するというのである。そのときに、不動のように
縄を一本一本投げていては間に合わないから、打ち網でいっぺんに救ってくれる。」
羂索なんていうと意味がわからないが、つまりは打ち網なのか。効率的ですね。
人びとを漁る観音サマ。

東大寺の執金剛神像に関連して。
「私たちが悪魔にいたずらされて困っていると、須弥山の頂上にいる帝釈天が、
その下段にいる四天王に助けにいくよう命令するのだが、命令している余裕がないときには
みずから飛んでいく。帝釈天は飛んでいってお釈迦さんの産婆をつとめたくらいだから、
ほんとうはやさしい顔なのだが、悪魔退治に飛び出した瞬間、顔の相が変わって
こわい顔に変身する。これは執金剛神である。さらに、宙に飛んでいる間に
もう一度変身して二体になる。これが仁王なのである。」
へーへーへー。帝釈天→執金剛神→仁王2体(阿吽)なのかー。
……なんか合体ロボットみたいです。合体じゃなくて分裂するわけだが。

東大寺の四天王像の足下の邪鬼。
「足で踏みつけているのは悪魔ではなく、四天王から『悪魔をやっつけてこい』と命令される
夜叉神であって、それは競馬のいきりたつ馬とその上で手綱を引く騎手の関係を思えばよい。
夜叉神は一般に邪鬼といわれるが、悪い鬼ではなく、ほんとうは私たちを守ってくれる
善神なのである。」
えーえーえー。今まで何度聞いても、「悪い鬼を踏みつけている」とかそういう類の
説明だった気がするぞ。
いや、でも善神なら、踏みつけられるってあまりにもカワイソウだ……。
特に持国天の夜叉神。これじゃあ首が折れちゃうよう(泣)。

興福寺の阿修羅像。
「お釈迦さんの説法を聞く喜びの表現なので、童心に戻って少年のような表情になって喜んでいる。」
阿修羅像がなぜ少年の造型として作られたのかずっと不思議に思っていた。なるほど。

唐招提寺の盧舎那仏。
ブツブツ恐怖症気味のわたしにとっては、この仏像はけっこう、ううっ、という感じですが。
光背にびっしりついた小仏のブツブツ感と、本体のほっぺたの金箔のブツブツ感がツライ。
「この像は、膝の上に置いた左手は手のひらを上に向けて広げ、薬指をちょっと立てている。
盧舎那仏はこの薬指で私たちの願いごとや悩みや心の病を聞きとってくれているのである。
そして、後ろの光背を見て、それぞれの悩みを救済するのにいちばんふさわしい仏さんを
選んで、右手の中指と親指で私たちのほうへポンとはじき飛ばしてくれるのである。」
ポンとはじき飛ばして欲しいな。わたしにはどんな仏が助けに来てくれるのだろう。

薬師寺の薬師三尊。
薬師如来の脇侍が日光・月光菩薩なのは、昼は太陽が、夜は月が照らしてくれて、
24時間営業の薬屋さん(?)になるためだそうですよ。
まさに昨今のドラッグストア。

しかし著者である西村公朝は僧侶である前に、まず芸術家であった人のようだから、
話の精度はどの程度なのか、という一抹の不安もある。
芸術家は思い込みが激しい、というわたしの思い込みにより、
王道じゃない話をしている可能性もないとは言えないように感じる。

でもまあ良書であることは間違いがない。
ちなみに本書を貸した知人も満足してくれたようで、メデタシ。

ところで、この本を注文してから届くまで、本屋に行って似たような傾向の本を見てみた。

幸か不幸か本書はなかったんだけど、以下の本の、ある仏像に一目惚れ。
……何の仏像だったかは忘れたが。これもそのうち買おう。

もっと知りたい興福寺の仏たち (アート・ビギナーズ・コレクション)
金子 啓明
東京美術
売り上げランキング: 255051

写真の勝利かもしれない。仏像にがっちり彩色が残っていると、きれいはきれいなんだけど、
いま一つ聖性が減じるんだよね。なんとなくお手軽に見えてしまう。
でもこの本の写真では、その辺を上手く長所に変えていた。
これはこないだ褒めたミュシャのアート・ビギナーズ・コレクションのシリーズ。
画像のレベルには信頼感がある。

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