この人は。
つくづく思う。文章をほんと自在に使っているよなあ……。
名文というのとはまた違うのだけど。
多少変な書き方の時もあるし。こういう書き方じゃダメなんじゃないの~?と言いたいような。
例えば。
ここで私自身の私事――私事以外のことを書いているわけではないのだが――を
書くことを許して頂くとすれば、私自身、一九六八年秋の、(以下略)
おいおい。何をモゴモゴ書いてるんだい。
……でもこの人の場合、わかっててやってる気がするからな。モゴモゴ書いている自分を
演出している。まあ時々そういうことをしたくなることもある。
普通の物書きは文章を道具として使う。そりゃまあプロだからそれなりに達者に使う。
でも堀田善衛の場合は、自分の手のように使っている。はるかに自在だ。
たまに、自在すぎる……と思うこともあるけどね。ほんと勝手気まま。
それが気持ちよく読めるというのはやっぱり芸なんだろうなあ。
内容が心に残るっていうわけでもないんだけれどもね、わたしの場合は。
でも読んでる間気持ちいい。
この本は「方丈記」についての私見を述べた本。
若い頃に出会って、それなりに人生を重ね合わせて読み込んだ本らしい。
だが、そういう本にありがちな、辛気臭さはあまりない。飄々と。この人は書く。
普通の人が「方丈記」について書こうとした時に、大なり小なり“取り組む”という感じに
なるのが当然のような気がするのだけど、この人は対象の横並びで歩きながら、
「ほら、こいつってこういう奴なんだよ」と勝手なお喋りをしている気がする。
「方丈記」が人間だとしたら、それを聞きながら苦笑するのではないか。
それくらい悪意のない、それでも勝手な、随筆。
と言っても、最後の最後になぜか急にちょっと熱くなったりするんだけどね。
何でここで?何で今さら?と言いたかった。しかも最後の尻切れトンボぶりは……。
初出がどこかわからないんだけど、打ち切りか?と思うようなあっけなさ。
うーん、なんかこんな部分を読むと、褒めていいのか自信がなくなる。
微妙だなあ……。好きだけど。
何か月か前にわたしが読んだもののなかで、池澤夏樹がこの人に触れて、
「ひと頃読み込んだ作家だ」という風に言っていたので、ふむ……と思う。
わたしは池澤は好きだが、好きだとストレートには言いたくない作家で、
しかし趣味の一致はそこはかとなく(←この辺に屈折した心情が)喜ばしい。
あとは池澤が辻邦生について語る言葉をどっかで読みたいもんだ。
ちなみに、辻邦生は「天草の雅歌」という作品を福永武彦に献呈している。池澤の実父。
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