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◇ 帚木蓬生「聖灰の暗号」

このタイトルを見て、「ダ・ヴィンチ・コード」を連想し、
「(売れ行きでは)後輩に負けちゃったねー」と思ったのだが
発行日付を見ると、こちらの方が後ではないですか。
うーん。「ダ・ヴィンチ・コード」にのっかって仕事をするようなセコイ作家ではないと
思いたいのだが、アレの後にコレだとなあ。しかもストーリー系統が同じだし。
そもそも、○○の暗号、というタイトルは有りがちなんだから、避けた方が良かったのでは。

聖灰の暗号 (上)
聖灰の暗号 (上)

posted with amazlet at 08.08.09
帚木 蓬生
新潮社
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面白かったけど、「国銅」の後のせいか物足りないよ。
というか、この人の方向性は地道にじっくりと書いてこそ光るというもので、
エンタメ性を狙って「暗号」「異端」「殺人」とか話を派手にするのは良くないんじゃないか。

暗号部分はね。良くもないけど別に悪くもない。
しかし敵対勢力の設定が安易すぎる。「ダ・ヴィンチ・コード」だってここまで安易ではなかった。
少なくとももうちょっと書きこんでたよ。
異端を取り扱うと、お約束でヴァチカン秘密組織が暗躍する。
そのお約束をあまりにもお約束にしすぎじゃないかい?

別に良かったのになあ。殺人とかからませなくても。
研究者の地味な暗号解読で、けっこう読ませることが出来たと思う。
相変わらず登場人物は定型的にいい人、なぜかモテる、人に好かれるキャラクターで、
この点実にご都合主義に話がすすむのだが、でもいやな人の話を読まされるよりはいいしね。
彼が調べたカタリ派の歴史を、じっくり追って行くという話で良かったのに。

根本的に、日本人がキリスト教の異端をモチーフに書くのは、実は無理があると思うんだよね。
日本人でも敬虔なクリスチャンの人はどうかわからないけど……
しかし彼ら(キリスト教徒)の身に染みついた宗教観というのは、我々がわかるものでは
ないんじゃないかなあ。たとえば西洋人に、神道が持つそこはかとない不気味さとか、
背後にある自然観とか、そういうのが体得出来るとも思えない。

であれば、日本人作家が安易に小説で「西洋人のカタリ派への心情」とか書くのはなあ。
そんな簡単に「カタリ派って素晴らしかったんだ。もっと見直さなければ」とはならないだろう。
西洋人のローマン・カソリックの根は(きっと)深いよ。異端への拒否は奥底に根付いているはずだ。
身に付いたタブーからなかなか逃れられないのが人間。
そんな古文書を読んだだけで、いわば宗教的転回が簡単に起こるわけない。

まあ、わたし自身は別にこういう安易なカタリ派賛歌でもいいんだけどね。
わたしは滅私奉公的な信仰よりは、疑う・考えるグノーシス派の方が納得できるし。
小説だし、「そうだそうだー」と無責任に同調出来る方が読んでて楽しい。
程度問題だけど。この作品くらいならわたしは面白く読める。

※※※※※※※※※※※※

昔から不思議でしょうがないことがある。
なぜキリストは十字架で死ななければならなかったのか?

誰が誰のために、誰に対して犠牲になったかといえば、

誰が=キリストが
誰のために=人類の罪を背負って
誰に対して=父なる神へ

だと思うんだけど、全能の神がなぜ子の犠牲を求めるのか。

身近な例で例えてみるよ。

キリストは人のいい青年。父なる神は金持ちの親父。人間は道を踏み外し、荒れた生活を送って
借金を山ほどこしらえてしまったキリストの幼馴染。

「親父、こいつのために金を貸してやってくれ!こいつは心を入れ替えて、真人間になると
誓ったんだ!頼む、今回だけでいいんだ」と、キリスト。
こういう息子に対して、
「ほほう、では借金のカタにお前の小指をつめてもらおうか」
こんなこと言う親父はカタギじゃない!

人間のためにキリストの犠牲を求める父なる神は善意じゃない!
むしろ、神が全能ならば、なんで人間をこんなに不完全に作った!?って責めたいくらいだよ。
なぜ神は愛だなんて言えるのか、不思議でしょうがない。
人間がこんなに愚かなのは、その愚かさを神が天から見て嗤うためではないかと……
そうでもなかったら、もう少しましな被造物になっているはずだ。

個人的にはそういう風に思っているから、わたしはカタリ派とかグノーシスとかの方が
親近感を持ちやすいんだよなあ。

別にキリストが神の子じゃなくてもいいのにねえ。処女懐胎なんて現代科学的に
どうしても納得出来ないことを奇跡だと言って無理やり聖化するより、
ブッダやマホメットのように、人間でいいのにねえ。
“立派な人間だった”ではどうしていけないのか。
信仰で大事なのは、人生哲学部分ではないのか。
イエスが神の子かどうかよりももっと大事なのは、「汝の隣人を愛せ」という
教えそのものではないのか。

ただひたすらに信じることを強要する宗教は、人間の最も大きな特徴である
“考える”ことを奪う、奴隷の宗教だと感じてしまう。
だから念仏を唱えるだけで極楽往生間違いなし、などと説く浄土真宗?の絶対他力とかも嫌だ。
まあ、心は言葉と行動に引きずられるものですし、「唱えることに意味がある」を
多少は認めるのにやぶさかではないけれども。

自分を他者に委ねることが出来る人は、それは幸せなのかもしれないが、
わたしは自分を手放すことは出来そうにない。

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