著者はフランス文学者。そして多分、古書収集人。彼の著作はこれが2冊目で、あまりよく知らないんです。
タイトルからして、読書日記の書き方指南かと思っていたら、
その部分も多少はあるにせよ、大部分は普通の書評本。うーん、ちょっとねえ。
詐欺ではないけど上げ底的な、タイトルと内容の乖離。
どうも自分と読書傾向があまり重ならないらしく、読みたくなる本がほとんどなかった。
実は、もうすでに十分過ぎるほどの課題図書を抱えている身としては、
書評本を読んで読みたい本がないと、ほっとすることも事実なんだよね。
「ああ、リストが増えずに良かった」
……この状況ってどうなのよ、と自分でも思わないこともない。
そこでほっとするなら書評本は読むな。
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というわけで、この本そのものに対して言いたいことはあまりないが、そこで引用された、
山本夏彦『誰か「戦前」を知らないか 夏彦迷惑問答』
の一節が目から鱗だったので孫引きする。
芝居には十八番があって同じ狂言を繰返します。ちがう役者が演じます。客は話の筋なら
全部知っています。今回は誰がどう演じるか古式を守って演じるか、新工夫があるか。
寄席もそうです。客は何回も見ているから見巧者になります。せりふなら全部おぼえてます。
芸は洗練されます。(中略)再三言うが映画は原則として新作です。新作に次ぐ新作を
もってしてレパートリー(十八番)がありません。役者も客も洗練されるヒマがありません、
せりふも暗誦できません。
……これがねえ。
多少の芝居好き&そこそこの映画好きを自任していたのに、こういう視点は今までわたしには
全くなくて、この文章を読んで愕然とした。
そうか。映画の一回性もありか。
わたしは芝居こそはその一回性(再現不可能)に特徴があり、映画はその無限の再生性に
特徴があると思っていたよ。ビデオ・DVDが日常になっているから余計。
芝居は、二度と同じものを見られない。
同じ演目、同じ役者でも、その時その時の舞台は一回きりのもの。
昨日と今日の芝居で全く同じということはありえない。息を吸うタイミング、表情、
しぐさの一つ一つ――同じにしようと努力していても、やはり違ってしまうものでしょう。
映画は一度フィルムとして成立してしまえば、いついかなる場合でも同じものが見られる。
その時見たものと10年後に見たものが全く同じと言い切ることには疑問を感じるけれど、
主としてそれは見る側に起因する問題。スター・ウォーズの4・5・6を封切り時と全く同じように
楽しむことは難しいが、映像としては寸分違わぬ。
しかし、そうか、客の成長か。
「たくさんの舞台を(映画を)見ている客の観賞力」についてはよく考えるけど、
「その演目を何度も見る客の観賞力」について意識したことはなかったな。
なるほどねえ。客も各論的に育つか。それは豊かな現象である気がする。
見巧者――この言葉ももう絶滅種だろう。
「ない」物についての言葉は急速に廃れていく。見巧者という存在自体が絶滅種。
表現の場において、発する側と受け手側は協力者であり敵対者だ。
まさにライバル。テニスなんかでも、実力伯仲という試合が一番面白いだろう。
表現は、どうしても少数の発信側VS多数の受け手となるので、あまり目立たないが、
個々にライバル関係が成立するようなら、それはきっと幸福な作品なんだよね。
適当な間柄にライバル関係は成り立たないから。
真剣な発信に、真剣な受容。あるいは反発。これがあるべき姿だな。
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