わたしが浅田次郎の名前を認識した時は既に、彼は売れっ子だった。
なので巷で、映画「鉄道員」などが流行っても、「ああ、あれ……」的に流していた。
売れてるもんにはどうも偏見があってね。評判ほど面白くないことが多いので。
最初から腰がひけてしまう。
個別で浅田次郎を認識したのは、「ダ・ヴィンチ」かなんかの記事で。
微妙に怪しい感じのおっさんとミケランジェロのピエタが並んで写っていた。
この背景が、ヴァチカンなら単なる旅行記事なんだけど、撮影場所はどこともしれない屋内。
ピエタをヴァチカンから動かすわけはないし、どういう状況なんだ?
そうしたら(不確かな記憶なので精度はないが)浅田次郎はピエタ像が好きで、
芝居の小道具として誰かが作ったピエタ像を譲り受けたという記事だった。
へー、ピエタ好きか―……。
意外。風貌に似合わず、と言ったら失礼だが。イメージに合わないだけに印象が強かった。
わたしもピエタが好きだ。世界で一番美しい彫刻だと思っている。
共通点を見つけ、しかし微妙。売れっ子だし……わずかな親近感とがっかり感が同居。
でもまあ、これも縁だから、浅田次郎、いつかは読んでみようと思った。
そして10年くらい経って。
こないだようやく初浅田次郎。「勇気凛凛ルリの色」でした。エッセイ。
……読んでそれなりに面白いんだけどさ。でもどうも話題にひっかかる。
この人、かなり波乱万丈の人生を送って来た人らしい。それはまあいいのだが……
やくざな時代のことをこんな風にエッセイに書いて、それで原稿料を稼ぐってどうかね。
その当時、この人に借金の取り立てなんかで脅しつけられた人は死ぬほど怖かったろうに。
いい面の皮だよね。あの時の恐怖が、紙の上では何でもないことになってしまう。
マルチ商法の被害者もね。騙されてお金を巻き上げられて、さらに原稿のネタにされ。
立つ瀬がないよ、ほんとに。
文学は堅気じゃない人々(≠ヤクザ)が作ってきた伝統があるから、
社会からの逸脱も相当範囲で大目に見られる。でもそれは、自堕落までだと思うんだよなー。
法に触れる範囲になるとね。……いや、触れてないのか。グレーゾーンなのか。
でもなんか嫌だなあ。ネタにするのがどうかと思う。本人は書くことで無意識のうちに
懺悔しているのかもしれないけれど、それで肩の荷を下ろされてもねえ……
一応「勇気凛凛ルリの色」の2巻はそういう過去の汚点の話題がだいぶ減り、
素直に読めるようになったけどね。
以上の状況を踏まえて、北上次郎推薦の「月のしずく」。
短編集で7編。7番目には因縁の?「ピエタ」も収録されている。
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結果としては、久々に読んで良かった本だった。
泣ける本は数々あれど、しかしわたしは泣けるからといって好きだとは言えない。
しっかり泣かされても、「上手いけどそれだけだなあ」と味気ない思いをすることも多い。
だが、この本は温かかった。登場人物がふっくらとした肉を備え、体温を伝えて来る。
が、それは現実感があるという意味ではなく、話としてはむしろおとぎ話。大人の童話の類だろう。
童話だからこそ、その温かさに心地よく身をゆだねられるのかもしれない。
月のしずく
聖夜の肖像
銀色の雨
瑠璃想(リウリイシァン)
花や今宵
ふくちゃんのジャック・ナイフ
ピエタ
上手いというより、やっぱりいい話と言いたい。わたしが「上手い」という時は、
テクニックと面白さは認めつつも、心で感じる部分で物足りないということが多いから。
「月のしずく」憐れで優しく、物悲しくて柔らかく、おいしいカステラを食べているようだ。
「聖夜の肖像」はさくりと崩れるダッグワース。
「銀色の雨」はビア・スティック。(くれぐれもカルビーのスナック菓子を想像しないように。)
「瑠璃想」は飾り飴。手毬のような模様の。
「花や今宵」は桜餅風味の洋風おせんべい。(そんな存在があるのかどうかは知らん。)
「ふくちゃんのジャック・ナイフ」はご家庭で作る白い揚せんべい。
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「ピエタ」は……これは毛色が違う。他が童話といっていいものであるのに対して、
もっと輪郭がはっきりした、これは小説。
この話はページ数がだいぶ足りなかったと思うな。本来はこの1.5倍くらいで書くべきものだった。
心余りて、言葉足らず。
このページ数だと強引な部分がほの見える。もっと気が済むまで語って良かったのに。
「ピエタ」にはこういう文章がある。
ミケランジェロは、六歳のとき母に死なれた。私と同じです。だから大理石のブロックに
向き合ったミケランジェロには、神様が降りたんじゃない。これは奇蹟なんかじゃない。
私には、彼の気持ちがよくわかります。彼は毎日毎日、泣きながら鑿をふるったに
決まっている。そこには神も、芸術も、バチカンも、何もなかった。名誉も、お金も、
マエストロとしての矜りも、何もなかった。
ミケランジェロは自分を置き去りにして死んでしまった母の名を呼びながら、ピエタを
彫ったんですよ。
こういう部分が(特に「だから」が)「心余りて言葉足らず」と感じるが、いずれにせよ興味深い。
ピエタに向かい合って、浅田次郎はこう感じたのか……。
同じものを見て、まったく違うことを感じているというのは、当り前のことなんだけれど面白い。
わたしはピエタに、泣きながら母を求めるミケランジェロの姿は見なかった。
母を早くに亡くしたというのは知らなかったけど。
わたしはピエタを、もっと甘くそして切ない、憧れによって作られた作品だと感じる。
天上界へ憧れて憧れて、自分もそこへ行きたくて、そのための翼としての作品だと。
若くしてこれを作ったのは確かに天才。だけど、この甘さと優しさは、むしろ若くなければ
彫れなかったものではないかとも感じる。まっすぐな憧れ。
ロンダニーニのピエタも好きだが、あれには諦念の静寂がある。あれが若い時に作れないのと同様に、
ヴァチカンのピエタは、年を取ってからでは作れないものだったのではないか。
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他に気になるのは、同じ材料が多かったところ。不倫とか。無私の愛とか。
何冊か読んだら飽きてしまうような気もする。この人は色々なジャンルを書いているらしいから、
うまく分散すれば楽しめるかもしれないけど。
次は「プリズンホテル」を読む予定。これはまさに、過去の体験が生きている作品なんだろうなー。
でも、やくざ体験が小説に生かされるのはそれほど気にならない気がするんだ。
結局、小説家は自分の経験しか文字に出来ないもんであるわけだし。
が、エッセイに書くのはね。少し厚顔無恥すぎやしませんかと思う。
さて。どうなりますか。
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