主題である本紹介は、普通に面白く読めた。わたしも時々この類を読むけど
他書と比べて1冊あたりの言及文字数が少なく、わりにざくざく書いているのがむしろ幸いして
読んでみようかと思わせる。リスト入りしたのを数えてみれば14冊。
本人も序で言及しているが、ジャンルが多岐に渡っているのは強み。
“普段特に興味があるわけではない分野のノンフィクション”なんて、こういうのを読まなければ
食指が動かないものね。
……本文はいいのだけれどね。良くないのは序。自分の速読術について述べた部分。
このあたりの文章がうざったくて閉口した。何しろ括弧が多い。
わたしは(括弧書き)というのは文章としては本来邪道で、なるべく少ない方が良いと思っている。
だって安易でしょう。括弧を使うと、文章の繋がりとか単語とかをあまり考えることなく
思い浮かぶまま野放図に話を広げることが出来る。これは楽だ。
括弧内を一つずつ確認していくと、蛇足と感じるものも少なくない。
新刊本が年間63000点、1日180点出るという話に付け加えて、
>(10日で1800点、100日で18000点)
この括弧内は不要だろう……。特にこの、100日18000点と書く意味がさっぱりわからないよ。
いくらわたしが数学が苦手だって、10倍、100倍の計算くらい暗算で出来る。
まあこんなのは重箱の隅をつつく類だが、「これ、括弧じゃなくて本文に入れて書くべきだよなー」
と思う部分も多々あった。
それから、別立てで“『「捨てる!」技術』を一刀両断する”(←ここ本当は三重括弧か?)
という文章が最後についているが、これに関して。
本そのものを読んでいないわたしが、立花隆のこれを読んだだけで『「捨てる!」技術』について
ナニゴトか言うのは絶対的に間違いである!!と大声で宣言した上で、
……尻馬に乗ってちょこっと言いたいぞ。
人間にとって、生きる=自分だけの価値観を固めていく過程、ではないのか?
なのに「その物に価値を認めているのはあなただけ」って理由で捨てろっていうの?
客観的な価値のある物以外はゴミなのか?いやそれはおかしいだろう。
そんなことを言うのは、その他大勢の価値観でしか物を見ることが出来ない、
貧しい内面世界の持ち主であるせいかと疑ってしまう。
他人のとっておきたい物を勝手に捨てるなんていうのは犯罪ですよ。
それによって蒙る精神的な苦痛は計り知れない。器物損壊罪をぜひ適用してあげたい。
立花隆の意見にほとんど賛成しつつ、しかし実は逆にこう言いたい部分もある。
……立花さん、この本にそこまで目くじらをたてなくてもさ。
ベストセラーってだけでヘタレ本の可能性が高いわけだから
(物好きな方は、本ブログの「百年の誤読」記事
http://blog.goo.ne.jp/uraraka-umeko/e/eaea27a200cb0ef9df42d707bac905ed
をご参照下さい)
オオマジメに批判する本じゃないんじゃないの~?
しかし新書本って、こんなんだったかねえ。
わたしは昔は新書本が好きだったんだが……。昔は新書本って、専門家が本来難しい専門の話を、
一般人に分かりやすい形で書いてくれるものだったはず。
それがいつの間にか、単行本に出来ないくらいの薄い内容をとりあえず本の体裁にするための
ツールになっていませんか。それとも昔からそういうものだったのか?
関係ないけど、数年前に講談社現代新書のカバーが変わった時は目を疑った。あれは酷い!
そもそも講談社現代新書は新書の中でもかなり内容が薄い部類で、それをあのデザイン性の高い
カバーが何とかカバーしていたのに……。唖然。一体講談社は何を考えて……
相当に興味があるテーマでもあれでは買えないよ。あのデザインが自分の本棚にあったらと考えると
おぞましいですな。
ちなみに些細な事だが、立花隆の外見をわたしは完全に間違えていた。頭にあったのは立松和平。
立花隆って「耳をすませば」でお父さん役の声優をやりましたよね。
それで間違ったのかも。雫のお父さんには立松和平の方がイメージ近くない?
それにしてもあの声優ぶりはツラかった……。
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さて。ここまででも既にだらだら話が続いているわけだが、さらにだらだらと書きたいことがある。
「速読」について。
速読ってそんなにいいもんですか?
……以前速読法をマスターしていて、1冊15分で読める♪と自慢していた、
多分中学生くらいの子をネットで見かけたんだけど、激しく疑問だ。
どうなんでしょうね、それって。
中学生なら読むのは資料とか情報物じゃないだろう。小説とかになるんじゃない?
小説を速読で読むことに意味があるのか。速読ってのは「何が書かれているか」のみを
知りたい時には使えるだろうが、その読み方で小説を読んだら、単にあらすじを追っているだけに
なるのではないか。それだと意味がなくない?
読む速度が4倍になったからって、理解力が4倍速になるか?感受力が4倍になるか?
大切なのはそこではないのかと思うのだが。
考えながら読む。感じながら読む。ま、何も考えずに読んで楽しむエンタメ小説もそれはそれでいいけど、
じっくり読むべき本を速読で読んだとしたら、「読んだ」と勘違いしてしまう分、質が悪いよ。
どうなの、その辺。
速読とスキャニングは違うものなのだろうか。
わたしも資料として合計何十冊かの本をぱら見したことがあるが、
それはあくまで、ぱら見(=スキャニング)であって「読んだ」とは到底言えない。
そこから類推すると、「速読」が読んだと言っていい状態なのか疑問に思う。
速読にそれほどの威力があるものだとすれば、何をおいてもマスターしなければ、
と思わないこともないけどね。でもなあ。個人的にはなんか納得出来ないよ。
わたしは平均よりは読むのが速い方だと思うが、その程度でも見落としたり、
気づかなかったりということが多々あるというのに。
実践者の話でも聞いてみたいものだ。
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