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< しゃべれどもしゃべれども >

原作は読んでいないが、なかなかいい話であるニオイがする。まあ、わたしの鼻は総体的にアテにはならんが。
それと比べると(読んでないのに比べてどうする)映画は演技力と演出力がだいぶ足りなかった感じかな。

わたしが言うのもナンだけどさ。
昨今の観客って、意図を示されただけで納得しちゃって、それを素直に信じ込んでしまう気がする。
記号で物を見てるというか。「この道具立てならこういう映画になるだろう」というのを見越して、
それが作り手を大いに助けている。
つまり、白黒の画面でも、リンゴが写ればみんなリンゴを赤く見てくれる。でもほんとは、
リンゴは作り手によってちゃんと赤く撮られるべきなんだよね。
欲を言うなら、リンゴの赤ってこんなにきれいだったのか!くらい感動させて欲しい。

本作は、赤くあるべきリンゴがさっぱり赤く見えないという、なかなかに物足りない映画でした。
いや、これはそもそもものすごく難しい話だと思うよ。
何が難しいって、落語。劇中劇のうち、一番難しいジャンルかもしれない。
広い意味での「劇中劇」を内包する映画は沢山ある。芝居はもちろん、ダンスとかバレエとかオペラとか……
ピアノ、野球なんかもある意味での劇中劇。そのジャンルには全くの素人である役者が、
上手かったり素晴らしかったり、天才だったりしなければならないわけで……
どうしても嘘っぽくなる。

映像をいじって何とか出来る類のものならまだいいんだ。たとえばバレエなら、1ポーズだけ
完璧に作り上げて、天才を表現することも出来ると思う。野球ならデフォルメ手法も使える。
しかし落語は声、表情、動き……全て総合して成り立つもので、しかも全てが動的。吹き替え不可能。
さらには「笑い」だからね。上手いか下手かが、笑えるか笑えないかでそのまま出てしまう。
「素人にわからない上手さ」という逃げ場がない、かなりシビアなジャンルだ。

国分太一の落語、伊東四朗の落語、が悪かったとは言いませんよ。
素人なんだから。素人としてはなかなかよくやっていた。
が、その素人に、「プロとして下手な落語」と「上手い落語」の演じ分けが出来るはずないんだよなー。
はっきり言って、火炎太鼓とそれ以外の国分太一の落語、違いがさっぱりわからない。
「違うんですよ」と監督が作りたいのはアリアリとよくわかるけれども、でも現象面では大した違いはない。

まあね。こういうところには目をつぶって見るのが、良いお客さんではあるのだが。
でも、その他の部分でもね。やっぱり演技力+演出力の不足はひしひしと感じた。
十河と国分太一の心が通じ合っているところなんて全く見えてこなかったし……。
あれで最後は恋仲ってのはどうかなあ。
Aという心情を演じるのと、Aのふりしているけど実はB、という心情を演じるのでは、
求められる演技力には相当な差がある。
今回の役者と演出家では、それは無理だったな。

子役もねー、いいところはかなり良かったけど、何かハズカシクなっちゃうところもあった。
伊東四朗は当然上手いんだけど、ただ上手いだけっていうか……味が全然足りなかった。
こういうところは演出家を責めたい。役者がどれだけのものを出せるかっていうのは、やっぱり演出。
素直な話に見えつつも、わりと構造は複雑なのに、それに太刀打ちが出来なかった。

一番良かったのは八千草薫。
「ふん、あたしの方が上手いね」という台詞は思わず手を叩きたくなるほどの味。
ただ、江戸前の下町、その粋や威勢の良さという部分では、わずかに物足りない。
この人のはまり役は、いい意味で「お姫さま」だからね。もう少し勢いが欲しかったかも。

ものすごく細かいところでイヤだったのは、軒先に吊るされた鬼灯(そうそう、ほおずきってこう書く)。
買った時点より育って実がたわわに生っているのはいいが、その姿があまりに人工的。
あれは鉢物じゃなく、多分アレンジメントであろう、とまで思った。
成長している気配がなかった。作られた姿のうそ臭さしか。

あんまり何も考えずに見れば、普通に「いい話」ではあるんだけどね。
しかしもうちょっと隅々まで神経が行き届いている映画を見たいものだ。

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