納得出来ない。……奥泉光の本を読むたびに同じことを言っている気がする。申し訳ない。
簡略に。
1.出羽庄内の忍者が主人公であるのに、なぜ「坊ちゃん」のパスティーシュなのか。
2.どーしてこの話で現代とミックスさせなければならないのか。
会話は庄内弁なのに、地の文は「坊ちゃん」の歯切れのいい文章。
これがただの標準語ならそれほど気にならなかっただろうが、坊ちゃんってバリバリ「東京もん」でしょ。
松山の生徒たちを田舎者呼ばわりする部分もたしかあったように思うし、
そういうことが影響して、この「庄内忍者」と「坊ちゃん」の結びつきは非常に落ち着きが悪かった。
言語は思考を支配する。東京言葉と庄内のメンタリティはどこかで齟齬をきたす筈。
この部分を活かすなら、「東京出身の(いや、当時はまだ江戸か)主人公が何らかの理由があって
庄内に居つく」という設定が必要で、その上でのストーリー展開になるべきだと思う。
そうすれば地の文は「坊ちゃん」で問題なく、庄内弁との落差もより楽しめただろうに。
ついでに庄内に居つく理由を忍者にからめれば、この作品であまり活きている設定とは
いえない「忍者」も、多少は意味を持ってきたのではないか。
そしてまた出ました、奥泉光得意の「仕掛け」あるいは「遊び」。
わたしはこういうの、嫌いですねー嫌いですねー、一体何の必然性があるというのだ、
幕末と現代をミックスさせることに!
単に極彩色を使って目先を変えてみました程度の意味しか感じられないぞ。
嫌なんだってば、「仕掛けのための仕掛け」なんか。
話自体は別に嫌いじゃない。物々しく「幕末」というわりには、なんてことない内容で、
ほとんど盛り上がりなく終わってしまうが、これはこれで良い。波乱万丈だけが価値じゃないしね。
しかしまあ、作者は書けなかったんだろうな。あとがきで言い訳をしているし。
でも、こんな風にまとめられずに終わらせて「機会があれば続編を書いてみたい」なんて言うのは、
プロとしてはちょっとという気がする。
まあ、新聞小説で期間が決まっていたのが、奥泉光には辛かったんだろう。
この人、控えめに言っても長書きだから、きっちり枚数に収めてさらに起承転結を、という技はきっと無理。
今まで読んだ数作品、みな風呂敷を広げるだけ広げて「終わる時には終わるだろう」
というスタンス。着地点はかなり危うい。
こういう人には書き下ろしだけ書かせてあげる方がよろしいと思われる。
あ、でも本家「坊ちゃん」も尻切れとんぼの感があるし、もしかしてそこまで真似たのか?
奥泉光は本作品にて終了。お疲れさまでした。
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