長い間、ちらちらと気になっていたのが中上健次。
理由は単純で、以前、梅原猛と「君は弥生人か縄文人か」という対談本を出していたから。
梅原猛はあのアツさとトンデモ加減がなかなかで、結構好きな書き手なのだ。
その本から推察できることは、中上健次は「熊野」という地域を背負って書いている人だということ。
地域を背負って書いている人は、わたしの狭い見聞ではそうそう何人も挙げられないが、
高橋克彦、池上永一なんかは確実なところだろう。
書くものとして、地域というのは、魅力的な存在ではある。
「書かれたもの」には独自性と普遍性がバランス良く混在していることが必要だと思うが、
地域を深く書くことは、独自性と普遍性という点から言えば、どちらも満たせるテーマですからね。
しかし。中上健次はどうも「どろどろっぽい」イメージがあった。
「どろどろ」というのは、わたしが読めないタイプの小説のことで、愛憎・人生苦たっぷりの
ものを指す。切れば血が出るような、体臭が漂ってくるような、「肉っぽい」フィクション。
そういうものは、どうも……。
ほとんど食わず嫌いなんだけど、わたしは「浮世のツラさを、どうしてわざわざフィクションで
追体験せなならんねん」という立場なので、やっぱりイヤなのだ。生理的に。
でもまあ何とか、読んでみた。ネット上で見かけた、とある書評家の
「中上健次なら『枯木灘』が最高傑作」という言葉に乗せられて。
そしたら、これが良かったんですわ。たしかに内容はどっちかいうと人生苦で、
様々な苦が主人公と、その周辺の人々にまとわりついてくるのだけど、
しかしそれを補って(というべきかどうかは疑問だが)あまりあるのが、文章の、描写の良さ。
読んで溜息をついた。土方仕事を、あんなに美しく書けるものかと。
自然と心情をからめた書き方はわたしの好みだ。
中上健次の文章は、血と肉をたしかに感じさせつつも、どこか静けさが漂う。
訥々としている……と言えばそうなんだけど、不器用な口吻で丹念に重ねる文章は、
どこか祈りが籠っているような気がする。純粋で、真摯な。
その後、他にも何冊か読んだが、しかし取り立てて好きだと感じるものはなかった。
他の作品は体臭が強すぎる。紀の国の紀行文なんかもあったが、その辺はより生々しくて苦手だった。
そして「鳳仙花」。これは好きだった。「枯木灘」のバランスを髣髴とさせる。
実際、話もつながっていて、内容は「枯木灘」の主人公である秋幸の母、フサの半生記。
「枯木灘」でフサに出会ってから、「鳳仙花」のフサを読むと、やはり感慨がある。
こう生きて、こうなったのかと。一人の人生を一通り眺めた充実感。
かといって、半生を追えば何でも充実感が得られるというわけじゃない。虚構の人生で
この充実感があるというのは、人物の厚みがちゃんと描けているということだ。
おそらく私小説ではあるんだろう、と思う。血縁関係が小説そのままだとは思わないが、
舞台となった場所とその生活は、作者が経験してきたものなのだろう。
丹念に書く。何かを塗りこめるように、じっくりと。
やはり、祈りに似ている。
さて、中上健次は「異族」で最後にしようと思っている。……しかしこれって、791pの本だ。
たとえ面白く読めたとしても、中上健次の文章を800ページ近く読み続けるのは、
その良さとは別のところで、……やはり大仕事だなあ。
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