この作品、以前から何となく違和感を持っていた。
今回テレビ画面で見て、ようやく何が気になっていたのか言葉になった。
……この橋、どうにも武骨過ぎませんかね。
そりゃねー。全てを蒔絵でケンランゴーカに飾ったら、ただの箱でしかなかったかもしれない。
アンバランスのバランス、違う要素のものを混交させたところに美を見出すのが
文化が爛熟しつつあった頃に生きた光林辺りの新境地だったのかもしれない。
でも、それにしても、この鉛の橋は存在感ありすぎじゃないかね。
鉛のとろりとした灰色。蒔絵の華やかな金色。なんというかこう……何とも言えず、つぎはぎ感。
橋がもう少し印象弱くあった方が良かったような。鉛の使用はまあいいとして、
橋自体をもっと細くした方が。あれでは、どうもあまりにも無造作に
どたっと置かれたような気がして、落ち着かない。一瞬「継ぎ」かと思いますもんね。
たしかに面白みとしてはあるんだけど……
でも傍若無人というか。ずぶとい感じが強すぎる。
さらに、今まで気づかなかった別の点だが。
内側に書いてある水の流れ。あれは激しすぎやしませんかね?
杜若が咲いていて、あんな板の橋なんだから、まるで逆巻く激流のような表現は
ふさわしからずと感じる。余白好きな日本美術で、余白を取らない描き方にも違和感があるし。
まあそこが斬新だったんでしょうが。
そう思ってみると、尾形光琳、かなりケレンみたっぷりな作風だ。
ケレンみというのに語弊があるなら、かなり人工的な作風。
紅白梅図屏風なんかも、梅の木自体はそれほどでもないけど、配置も水も表現も、
絵というよりはむしろ「デザイン」である。現代にいたら、画家というより、
間違いなくグラフィックデザイナー路線。才気で描くタイプ。
おまけでもう一つ、違和感の要素を挙げれば、杜若の花の螺鈿細工がかなり拙く見えること。
そんなことないだろうか。間近で見たわけではないので、気のせいかもしらんが。
もう少し繊細な細工が出来たのではないか……と、思わないでもない。
まあ、一流の細工師に頼むほど、お金をかけてなかったのかもしれない。
そういえば、そもそもこの硯箱、どういった成立事情があったのだろう。
当時のことだから、基本的に注文制作のような気がするが。
そうなるとやはり予算との兼ね合いになってくる。常に最上の技術が駆使されているとは限らない。
絵なんかと違って、工芸品は基本的には分業でしょうからね。
その噛みあいも大事なんだろうな。
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