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◇ 庄野潤三「貝がらと海の音」

庄野潤三。全く聞いたことがなかった。最初に読んだのは「夕べの雲」、これはとある書評家が
熱く薦めているのをネット上で見たから。庄野潤三を語る、そのうっとりとした口ぶりが微笑ましく、
「そこまで言うなら読んでみましょう」という気分になった。

……読後。「一発合格」。

「夕べの雲」は日常を描いた文章。昭和30年代?40年代?の家族のささやかな優しい日々。
読んで気持ちがいい。何でこんなに気持ちがいいのか、読み終わって半分首を傾げる。
こんななんでもないことを、しかも全く奇をてらわずに書いて、
それを他人に読ませるというのは一体どんな魔法だろう?

吉行淳之介と同時期の、「第三の新人」――と言われたところで、
吉行淳之介を読んだこともなければ文学史に疎いわたしには、まるで手がかりにならない。
ただ、ただひたすら”優しい人がいる”と思った。それは古きよき時代だからこそ存在していた、
今では消えてしまった人種のように感じた。今の殺伐たる世の中ではあり得ない人の姿。
ノスタルジーの魅力だろうと思った。

しかし「貝がらと海の音」。これを読んで考えを変えなければいけなくなった。
なぜかといえば、この作品が書かれたのは1995年。十年前の話である。
それなのに、話のトーンは「夕べの雲」とほとんど変わっておらず……
いささか時代錯誤に感じるほど、しみじみとした(そしてささやかな)日常の話。
これをノスタルジーと名前をつけて片付けてしまうのは、少々安易ではないか。

正直、創作物として面白いことはまるで書かれていない。
作品の大半が、誰々から食べ物をもらったとか、庭の花が咲いたとか、孫が来てどうのこうの……
というごくごく普通のことが、しつこいくらいに繰り返し並べられている。
劇的なことが全くない。逆に、どんな人でももう少し山も谷もある日々を送っているはずではないかと、
不思議になってしまうほど。
一冊読んだ中で、マイナスの様相を帯びた出来事といえば、作者本人が風邪をひいたことと、
孫の一人が頭をガラスにぶつけたこと。これくらいしかない。合計して2ページに満たない。

あとは全編「よろこぶ」「うれしい」「よかった」「おいしい」……で綴られている。
それだけを拾えば、小学生の作文じゃないんだから……と言いたくなる。
もう少し批評精神とかは、鋭い独自の視点とかは?と頭の隅で思ったりもする。
作家というくらいなら、もそっとこう、めざましい才の部分を……

こんなことを思っても、結局庄野潤三にそれを求めるのは間違いだとわかっている。
この人は「優しみ」によって文を綴ると決めた人なのだろう。
観察眼の鋭い人が描写を武器とするように、
物事をひっくり返すのが好きな人があっと驚くトリックを生むように、
繊細さを持つ作家が、丁寧な心理描写によって人の心を掴むように。
この人は優しさと穏やかさでペンを動かす人なんだ。読んであまりにも癖無く、素直だから
その武器がどれほどのものなのか、なかなか実感として捕まえにくいけれども、
少なくとも読んで気持ちがいいということは、その武器は有効に働いているということだ。

澄まし汁。それも椎茸とお豆腐の。
この作品を食べ物に例えた場合、何になるかと考えれば、そういうものになるのではないかと思う。
味噌汁より透明度が高く、味わいがすっきりしていて、そして大事なのは、
全く贅沢なものが入っていないこと。同じ澄まし汁でも、具によっては
「澄まし」たものにもざっかけないものにもなるが、これは何の変哲もない具。
だが、出汁は丁寧にとってあるし、椎茸は大分産の肉厚どんこ、豆腐は濃厚手作り豆腐、
一見しただけではごちそうには見えないかもしれないが、食べてみると美味しいよ、といったところ。
読んで美味しい味わい。

まあ、どこがいいって、出て来る人がみんないい人ってところだね。
嫌な人も悪い人もいない世界。これはもしかして立派なファンタジーなのではないだろうか。
日常の細々としたことを、ただ素直に綴っているように見えて、実は数え切れないほどの
棘を注意深く取り除いた、手間隙かけた作品ということなのだろう。

貝がらと海の音
貝がらと海の音

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庄野 潤三
新潮社 (2001/06)
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猫も杓子も言う「癒やし」という点でいえば、これほどそれに相応しい本もない。
一気にではなく、少しずつ読んで行きたい本。

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